ほんの数年前に比べると、パソコンや携帯電話などが登場し、生活が便利になって来ましたね。ほんとうに便利にもなりました。科学技術の進歩は著しく、IT技術や遺伝子実験を含む生命科学の進歩は「日進月歩」ではなく「分進秒歩」と例えらえるぐらい著しいものがあります。
😯
でも…、様々な分野で学問や科学が急速に進歩しているにもかかわらず、不思議なことに最近はおかしな事件が絶えませんね。年を追うごとにおかしな事件やおかしな人が増えているように思います。数十年前に比べれば人々の知的水準が上がっているにもかかわらず、逆に人の心が貧しくなっているような気がします…、なぜでしょうか。
😕
考えてみると、人は物事を区別することによって学問や技術を進歩させてきました。例えば、今では化粧品や家電品などに応用されている「ナノ・テクノロジー」は、「ナノ」という一億分の一メートルの超微細なミクロの技術を言いますが、「ナノ」という長さを測る単位が無ければ存在しなかった技術です。つまり「長さ」の違いを区別できたために、人はナノテクノロジーという技術や学問を発達させることが出来ました。
😆
人は知的好奇心から様々なものを区別するようになりましたが、その弊害として人間を区別したり、ランク付けするようになり、差別や劣等感という副産物を生みだしているように思います。劣等感とは、自分と他人を比較して自分を悪いように区別するもので、差別は他人を悪く区別するものです。裏を返せば、物事を区別する習慣がなければ差別や劣等感も生まれなかったかも知れません。人が知的になればなるほど、ますます心が貧しくなるのはこのためかも知れませんね。
🙄
昔の人は「不二」「一如」などと言って、区別したり比較けすることの弊害を説いています。不二とは「2つではないこと」を言い、一如とは「1つであること」を意味します。
良い表現ではないかもしれませんが、木の葉の表と裏に例えると、もし色つやのきれいな表側が好きだとしても、裏がなければ葉っぱは存在しません。どちらに価値を見出すかは人の勝手な価値観によるものであり、どちらが欠けても葉っぱは成り立たなくなります。
より身近な例では、例えばお母さんが、お子さん(または自分自身)について良い面と悪い面を分けたとします。しかし、そのように区別した瞬間から、悪い面をどう改善すべきかについて苦悩の連続が始まります。
このような考え方はよくありません(間違っています)。悪い面をひたすら否定するのではなく、大切な一部として受け入れた上で工夫していくことが大切です。
😥
学問は物事を区別することによって発達してきましたが、人の苦悩は、逆に区別することによって生まれます。この時、良し悪し分けることに大した意味はなく、共に存在することが大切だと気づけば、悩むことも少なくなるのではないでしょうか。
一方、現代では「多様性」という考え方があります。よく「生物の多様性」とか、「遺伝子の多様性」などという表現をします。
多様性を簡単に言えば、世の中には、色々なものがあっても良い、様々なものがあることがむしろ大切なんだ、と言う考え方です。
現代では温暖化が叫ばれて、国際的に真剣に温暖化対策が考えられていますが、私たち生物が暮らす環境は常に一定ではありません。環境に限らず社会も劇的に変化しています。このような変化が激しい中では、テストで良い点を取れるだけで生き残れるとは限らないように、様々なバラエティ(特技や癖や考え方等)がある方が生き残るチャンスが広がります。これこそまさに多様性というものです。
つまり変化が激しい環境下では長所が欠点となり、欠点が長所となることもあれば、どれが正解でどれが不正解かは変化が来てみなければ誰もわからないというわけです。
子育て相談の中で多い心配事として、人見知りが激しい、言うことを聞かない、おとなし過ぎる、わがまま、など色々ありますが、激動の時代を生きる子供たちにとって、どれが欠点と言うことはなく、時代の流れとともに、いま欠点に思えるような点が簡単に長所にもなってしまいます。
😛
学問(勉強)をすることは大切なことですが、その弊害として物事の一面だけに捕らわれたり、意味のない分類に振り回されないことが大切です。人間を含めて物事には様々な面がありますが、その1つ1つのどれが欠けても人や物事は成立しません。子供たちは人類の未来を背負い、多様性を持って生まれてきている訳ですから、その多様性を尊重しつつ子育てを行うことが(私たち親にとって)大切かもしれません。
「不二」や「一如」や「多様性」といった意味を理解すると、子育ての悩みがずっと楽になるかもしれませんね。